TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが語る、最後発のFM雑誌『FM STATION』にまつわる回想記

雑誌『FMステーション』があった時代の物語

文/延江 浩

FM番組とFM雑誌、そして音楽とクルマの蜜月

合言葉は「モアミュージック、レストーク」。高音質で最新音楽を丁寧に聞かせてくれるFM局の独自性と魅力を追求してきた世界。FM局にはFMステーション誌はどのように映っていたのか。FM東京(入社当時)で数多くの番組を担当したプロが、当時の思い出とエアチェックの魅力を深堀る。

1978年4月、大学入学から始まった青春の思い出

ボクが大学に入ったのは1978年4月だった。日吉キャンパスで同好会に勧誘され、そのまま多摩川べりにあったテニスコートに連れていかれた。アメリカのプロテニス選手、ジミー・コナーズを真似て、ハワイで購入したウィルソンT2000というスティールラケットを持っていたし、自宅そばのICU(国際基督教大学)内のコートで高校のクラスメイトとラリーしていたから、腕試しにちょうどいいと思ったからだ。

多摩川べりにはクレイコートが何面もあり、駐車場にはピカピカのクーペが並んでいた。それらは(おそらく付属高からの)先輩たちの愛車だった。セリカや117クーペ、フェアレディZがずらりと並び、車内のぞくと後部座席にトニーラマのウェスタンブーツや何枚かのレコードジャケット、助手席にはカセットテープが散乱していた。何しろ同好会ゆえ、テニスの腕前は驚くほどではなかったが(だから入部はやめておいた)、ビョルン・ボルグばりにフィラのウェアに身を包んだ先輩たちはせっせとカセットにポップスを録音し、自由が丘や湘南を流していた(らしい)。

それら“先端”の学生たちの風俗を田中康夫が『なんとなくクリスタル』(1980年)という小説に描いて江藤淳が絶賛、文藝賞を受賞してデビューし、芥川賞候にもなり、かとうかず子主演で映画化された。雑誌『ポパイ』、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』、『スター・ウォーズ』に彩られた時代だった。

何をするにも音楽は欠かせない存在だった

ウォークマン(ソニー)とカーステレオの普及で、何をするにも欠かせなくなったのが音楽だった。夏休みにニューヨークに出かけて行ったら、街角でそのウォークマンを譲ってくれないかと何度いわれたかしれない。ボズ・スキャッグス、イーグルス、マイケル・ジャクソン、ビリー・ジョエル、ホール&オーツ、クリストファー・クロスにエアサプライ、TOTOといた洋楽勢、ジャズではクロスオーバー(フュージョン)が流行っていて、ジョー・サンプル、渡辺貞夫、日野皓正、笠井紀美子、ザ・スクェア(現在はT―SQUARE)にカシオペア、Jポップ(という呼称はなかったけど)では、サザンオールスターズ、ユーミンがいた。

土曜の夜には小林克也の『ベストヒットUSA』がテレビ朝日系列でオンエアされ、MTVの到来を告げていた。ヨットやサーフィン、スキーに興じる一方、少しばかり演劇をかじったボクは指導教授に叱咤激励されてマスコミの就職戦線に挑み、FM東京に就職した(TOKYOFMという呼称はなかった)。JFN(ジャパンエフエムネットワーク)は、いまでこそ局を数えるが、民放FMは大阪、福岡、愛媛を含めて4局しかなく、FM横浜もJ-WAVEも存在しなかった。

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