TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが語る、最後発のFM雑誌『FM STATION』にまつわる回想記

FM局のブランディングは「おしゃれなメディア」

当時のFM東京には、片岡義男、村上龍、高橋三千綱、つかこうへいら新しい文化の旗手が登場し、「モアミュージック、レストーク」を合言葉に、限られたリスナーのための「オシャレなメディア」と注目を浴びていた。「われわれはラジオではない。『FM』である。」入社早々、ボクら新入社員はガイダンスでそう叩き込まれた。音質のよさを生かした音楽局。文化を大切にする教養局。AMの後発だったFMは、そんな点をアピールする戦略だった。

広報セクションの先輩(チーフ)は洋モクのLARK(ラーク)をジッポーで吸い、BD(ボタンダウン)シャツにコットンパンツのアイビー青年だった。彼が日ごろつきあっていたのが、『週刊FM』とか『FMファン』や『FMレコパル』といったFM雑誌だった。FM誌にはオンエアされる曲とアーティスト名が詳しく紹介され(レコード番号まで書いてあった)、リスナーはラインマーカーを引いて留守録をセットし、お目当ての楽曲をラジカセで録音した。音楽番組にはソニーやTDK、日立マクセル、ケンウッドなどがクライアントにつき、番組は月〜金ベルトやテレビサイズの分の箱(番組)が多かった。新譜がいち早くオンエアされ、名うての音楽評論家やアーティスト自身が丁寧な解説をしてくれる。さながら耳で聴くライナーノーツだった。

田園コロシアムで開かれた“ライブ・アンザー・ダ・スカイ”のV・S・O・P(ハービー・ハンコック、フレディ・ハバート、ウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムス)やチック・コリア。日比谷野外音楽堂やよみうりランドオープンシアターEASTでの外録企画もあった。タイムテーブルを広げると、小澤征爾がボストンフィルを振る海外からの生中継番組もあった。企画にはテレビマンユニオンのクレジットがある。小澤ファンはさぞドキドキしながら、海の向こうの演奏会に録音ボタンを押したころだろう。

アメリカ西海岸の香りがした『FMステーション』

FM誌の中で後発の『FMステーション』の垢ぬけさはとびぬけていた。判型も大きく、書店でも目立っていた。小難しい解説などなく、育ちのいい、伸び伸びと屈託のない音楽記事がいくつも並んでいて、「音楽が生活の真ん中にある時代」を素直に象徴しているマガジンだった。

鈴木英人がイラストを書き下ろした表紙からはアメリカ西海岸の香りがした。鈴木は山下達郎のアルバム『FORYOU』(年リリース)のカバーも担当したが、達郎サウンドこそボクら東京っ子にはどこにも譲れない音楽だった。彼の音楽はカーステレオにもうってつけで、並みいる洋楽に決して引けをとることはなかった。

神谷町に住んでいたガールフレンドが真っ赤なフェアレディZを半年ほど貸してくれた(彼女はもっぱら自宅のクルマ、BMW5シリーズに乗っていた)。ボクは5ナンバーのフェアレディに乗り、『SPARKLE』や『MORNINGGLORY』『潮騒』『ダウンタウン』をどれほど聴いたかしれない。いまでも『FMステーション』誌を思い浮かべると、当時の山下達郎を口ずさんでしまう。

エアチェックしたカセットケースに入れる付録のレーベル(次ページで読む)